発行年月日:1999/6/25
サイズ:四六版上製
ページ数:232
コード: ISBN4-938939-09-6
定価:(本体1,800円+税)
『減反政策』という四半世紀に及ぶフィロソフィーなき大愚策に、公然と反旗をひるがえした東北の一町長の戦いの記録。小さな町の町長の大きな決断が、やがて歴史を変えることになる!
目次
[第1章] 荒れていく田園
[第2章] 「小さな町」の大きな挑戦
[第3章] 「自主減反」の旗をあげる
[第4章] その気になっている「ムラ」がある
[第5章] 日本の農業をグランドデザインする
本書の内容
◆第1章荒れていく田園◆
耕作放棄地が増えていく「中山間地域」
わが家は山あいにあって、山裾の小道を数分も歩くと、パッと変化に富む視界が開ける。遠く見はるかす高い山は霞み、近くには大小の丘々がくっきりとさまざまなシルエットを描いている。清流に沿って、春から夏にかけては緑なす山野が拡がり、秋には稲穂が一面たわわに黄金色となって田んぼを埋めつくす。
ここは山あり、川あり、空があって、のどかな農村だった。戦前はもちろん戦後もしばらくは、屋敷林に包まれた厩つきの曲がり家がその実り豊かな田園風景にアクセントをつけていたのも、かつては南部藩の地ならではの光景であった。
その美しい田園風景に欠かせない貴重な水田が、ここ数年あちこちで原野に戻っている。
原野と表現すると実態がぼやけてしまう。ようするに、それは・・・ここ二十七年来の国による米の生産調整(減反)という政策によってもたらされた荒れ地のことである。
米が穫れすぎるので田をつぶし、そこを他の大麦や小麦、大豆、野菜などの作物の転作地にせよというのだが、一口に転作といっても簡単なことではない。
たとえば東和町一帯の土地は粘土質で、三日も天日にさらせば岩のようになってしまう。そこを急いで耕し直すのは大変な力仕事となって楽ではない。
それが棚田ともなれば、もう高齢となって足腰が弱ってきた農民にとって作業は苦行そのものである。そこで農地を他人に貸して耕作を委ねようにも、その担い手自身の高齢化もまた進んで借り手がいない。こうして耕地が放置される。すると、たちまち一面に葦が生い茂ってしまう。そうした荒れ地が、このところ増え放題で目にあまる。十年前の耕作地2370ヘクタールの約一割が原野にもどった勘定である。
減反で荒れ放題になった休耕田以前は、私は山裾に敷きつめられたような棚田の緑のじゅうたんの間を散策するのが楽しみだった。
ところが昨今は、丘陵のたもとを枯れた原野が巻いて殺伐としている。そこを歩いていると、味気なく惨めになる。
ましてや、かつて原木を切り倒し、土中深い根っこを掘り起こし、岩を取り除き、そうして鍬を打ちふるい堆肥を入れて地味豊かな田にして、ようやく作物を収穫するにいたった、その労苦と喜びを我がものにした農民たちの心はいかばかりか、それを想像すると胸が痛む。
こうしたことをもって「耕作放棄地割合が高い」中山間地域として問題視されるのは、いささか心外だ。なぜ耕作放棄地が増えるのか。つまりはお上の指示によって水田が次々と耕作放棄地に変わってしまったのである。また件の特徴づけとしたら「農業的条件に恵まれない」とされるのも、何をしてそう決めつけるのかと反論したくもなる。
たしかに東和町の田畑の多くは山間に迫るものだから地形の条件は良くないが、土質はけっして悪くなく、農民の知恵しだいで田畑を整備することも可能で立派に農業が成り立つ。仮にやる気を出して農業にいそしむならば、またやる気のある農民が多いとすれば、それだけソフトの部分で農業的条件に恵まれているといえなくもないのである。あいにく、せっかく汗水たらして耕し、やがて収穫の喜びをもたらしてくれた、その米づくりの田を(減反政策で)「耕すな。もう米を作らなくていい」というのでは、やる気も殺がれようというものである。
著者略歴
小原秀夫(おばら・ひでお)
昭和2年(1927)、岩手県土沢町(現・東和町)に生まれる。
国立宮古海員学校を卒業後、浜名海兵団(海軍予備生徒)を経て練習巡洋艦「鹿島」に乗り組む。南方洋上にて攻撃を受け、駆逐艦に救助され、九死に一生を得て帰還。
戦後、青年団体連合会長などを務め、青年連動のリーダーとして活躍。その指導力を買われ昭和28年、役場に入る。歴代町長の側近として町政に参画し、総務課長その他を歴任。昭和53年に助役、昭和61年に町長。
以来11年間にわたり、独自のイメージに基づいた町づくりを展開、「スピードと実行」をモットーに、従来の殻を破る新機軸を打ち出し、小原町政は東北でも有数の情報発信の町として注目を浴びた。
平成9年3月、長年続いてきた国の「減反政策」に異議を申し立て、「米を作るも作らぬも農民一人ひとりの自主判断に任せよ」とする、いわゆる「自主減反」を提唱。全国的な波紋を呼んだ。しかし、半年後に「自主減反」の実施を撤回、同年12月、町長職を辞任。
一町民となった今日、なお問題は解決していない、「国の農政は改めるべし」として講演等で全国を行脚している。座右銘は「身を捨ててこそ生きる道あり」。
その解説のシャープさ、わかりやすさは超人気。一人で書いているメールマガジンの読者数は98年末で12万部を超え、今なお月平均1万部以上増えつづけている。