赤坂はこんなにおしゃれになった
日本でただ一人の『商店街』女性理事長
城所ひとみ

赤坂はこんなにおしゃれになった

発行年月日:2001/12/15
サイズ:四六版上製
ページ数:200
コード: ISBN4-938939-26-6
定価:(本体1,600円+税)

本書の内容

さびれてゆく街をどう再生するか。ゴミ、電柱、駐輪、駐車場──。ヤクザの親分さんに筋を通し、韓国街のボスの胸にとび込み──、そうしてアカサカはガラリと街の様相を変えました。

エスプラナード赤坂 HP → http://www.e-akasaka.com/

ダイジェスト

『ある日ヤクザさんの組事務所に出向きました。玄関の引き戸を開けるとき、一瞬 ”お控えなすって” と仁義をきらなければならないのかなという想いがよぎったのは、ひょっとしたら任侠映画の見すぎだったのかもしれません。奥から中年の男性が出てきました。りゅうとしたストライプの背広を着こなし サマは一見ビジネスマン風でしたが、頭はスポーツ刈りというんですか短めで、また目つきが鋭く射すくられるようでした。』
韓国人の人とも、すっかり懇意になりました。
ヤッカン通りの整備ですから、もう一方の韓国出身者の方々との折衝も、役員みんな難航を予想していました。
赤坂田町通りは、焼肉屋など韓国料理のお店や、俗に韓国バーといわれるお店が非常に多かったのです。

わたしは、この件でも赤坂警察署長に相談しました。署長さんのご返事は、ヤクザの場合のように適 切な人物かどうかはわからないが、日本における韓国料飲業界の組織のトップが赤坂田町通りにいらっしゃると教えてくださいました。
その方は韓国料飲業界の理事長だとのことです。その組合事務所が赤坂田町通りにあったのです。とにかく会ってみようと、出向くことにしました。

例によって淵副会長が同道しましたが、わたしの思い立ったが吉日という行動力は淵さん先刻ご承知です。いやな顔ひとつなさらず、ご一緒していただけました。 赤坂警察署長も気をきかせて事前に電 話を入れてくださっていたようなので、にこにこと迎えてくださったその方は楊忠鉉(ヤンチュンゲン) と名乗られました。こちらの用件を聞き終えるか終えないうちに、その楊さんは、突然わたしの両手を強く握りしめたのです。

そして、こうおっしゃいます。『わたしたちは日ごろから赤坂で世話になっています。そして赤坂が銀 座に負けない素晴らしい街になったらいいなと、いつも願っています。でも、わたしたちは嫌われ者です。本心を言うと、いままでもなにか街づくりのお手伝いができないかと想い、ときには当方か出向い て申し出ていたのですが、どなたも本気で受け止めてくださいません。ところが今日、赤坂田町通りの 商店会さんの方から出向いてこられた。会長さん自らがお見えになったんですねえ』と感極まって、涙 を浮かべるではありませんか。わたしは心を打たれました。思わず感動しました。
建前では、みなさん異邦の人と友好的に付き合わねばならないと考えていらっしゃるとは思います。

でも根っこに巣くう負の心情を、多くの日本人が持っていました。赤坂の商店街関係者の多くにも、そういう感情がありました。わたしが韓国の人と握手したことが、たちまち赤坂中に知れ渡って『あの女はなにを考えているんだ』といった、大げさではなく非難中傷の声が巷(ちまた)に満ちあふれたよう
でした。 そういう声に、わたしはとしては珍しく気色ばんで反発し、『現に多くの韓国の方々が赤坂で営業なさっている事実を、どう考えるんですか。これまで商店街として、どうなさってきたんですか』と逆に問 いかけました。すると、たいてい返ってきた言葉が『一線を画してきた』というものでした。

それを聞いて、わたしは『一線を画してきたからこそ、いまや赤坂はがらがらのビルだらけ、歯抜け の土地だらけになったんです。それを防げなかったのは日本人の怠慢じゃないですか。そういう日本人を横目に、残る良い場所やビルに韓国の人が入ってきたんですよ。そういう人たちを適にまわし一線を画して対岸に追いやって、それで赤坂の街づくりができるとでも思ってらっしゃるんですか』と、このときばかりは感情も昂ぶって自分の口調が激しているのを止められませんでした。
わたしはなお『同じ岸に立って語り合ってこそ理解も及び、共存共栄の精神で街づくりのスタートラ インに立てるはず、そうでなければ赤坂の街は生き残れない』と主張しました。それに対しても『小娘 のくせに生意気な』という空気が強かったようです。

圧倒的に昼間の人口が多いのは、まさに東京都心ならではです。赤坂は、昼間そこで働く人たちで賑わい、夜は夜でそれらの人たちがくつろいで賑わう街です。よくいう『職住近接』ならぬ、ここは『職遊近接』の街なのです。商店街は、そういう人たちを相手に営業しています。わたしはここが大事だと思いました。

見まわせば、赤坂地区には日本を代表するような大きな企業のビルが立ち並んでいます。サントリー、 鹿島建設、東急エージェンシー、日商岩井、富士ゼロックス、国際興業、TBS等々。都市銀行の主力 支店も軒並み揃っています。そこで働く13万とも15万ともいわれる人たちが、たとえば昼には昼食 をとりコーヒーを飲み、夜には同僚、友人たちと飲み食いして、そういう人たちをお客さまとして街は成り立っているのです。

そのように赤坂で過ごす人たちが、街をどう思っているのか、どう考えているのか、とても気になりだしました。

街でなんらかの営みをしている人たちだけの商店会でいいのか、という疑問におそわれました。そして、その営みの対象としている人たちをも視野に入れた商店街活動でなければならないのではない か・・・と思いついたのです。
さてトーク赤坂21については、ただ漫然と集まって雑談するというのでは、そのうち集うことが無駄だと思う人が出るのではないかと心配し、原則として例会にはその都度テーマを決めて講師(パネラー)をお呼びし、シンポジウム形式で運営しようということにしました。
初回の例会を開いたのは平成二年の二月でした。パネラーとして街づくりの研究所の代表もなさっている山梨学院大学の大川照雄教授が来てくださることになりました。 その第一回目の例会を開くときは、トーク赤坂21の会員も四十人ほど膨らんでいました。その後もパネラーとして経営コンサルタン ト、都市計画家、マーケティング専門家、ジャーナリスト、アーティストと、初めは幹事役の知り合いを呼び、そのうち会員の伝手で呼び、・・・・と、多士多様なパネラーを囲んで例会が盛り上がりました。ときには警視庁の防犯課の方や大蔵省財務局のプリペードカード担当の方が講師になったこともあ りますし、また会員メンバー自身がパネラーになったこともあります。
とはいえ、例会は講師の話を聴くだけの講演会ではありません。パネラーの話が終われば、それをネタに侃々諤々(かんかんがくがく)、あるいはテーマを外れてでも大いに語り合いました。お弁当を食べ、コーヒーか缶ビールを飲みながら、口角泡を飛ばしています。 一人として黙って聞いているだけの人はいません。みなさん一家言あって、一言でも二言でも語りたいから集まっているのです。また『赤坂』という街のこと、そして街づくりに関連することならなんでも語っていただきたいから用意した場です。

会員は、先ほどあげたような赤坂地区に立地する大手企業のビジネスマンがほとんどです。そういう会社の部長級の人もいます。キャリアウーマンもいます。ただし、いずれも会社を代表して出席するというのではなく、それぞれが自由な個人として自分の意思で参加しているのです。そして商店街の役員や、また商店主、自営業もいて、みな同じ『赤坂を愛する』トーク赤坂21のメンバーとして自由な話し合いをしています。

そのように赤坂が『自分の暮らす地域社会だからこそ』と、彼は『暮らしよい街であってほしい』と、 トーク赤坂21に顔を出すのだと言っていました。わたしはそのお話を聞いて『わが意を得たり』と、とても嬉しく思いました。

著者略歴

城所ひとみ(きどころ ひとみ)


昭和22年(1974)、東京は神田の生まれ。
慶應義塾大学文学部国文科卒。 中・高校英語国語教職免許取得。卒業と同時に結婚し一男一女をもうける。

昭和56年(1981)赤坂クインビル副社長としてビル経営に従事。そのために危険物取扱主任者資格、宅地建物取扱主任者資格、簿記弐級を取得、税理士試験にも一部合格。

昭和63年(1988)に「赤坂田町通り会」役員となり、 平成2年(1990)同会長に就任。同時期に「トーク赤坂21」の代表発起人になる。翌3年(1991)に東京都公安委員推進委員(特別職非常勤)となる。

現在は「商店街振興組合エスプラナードアカサカ」理事長。
あわせて東京都商店街連合会常任理事、港区商店街連合会副会長、赤坂青山地区環境美化・浄化振興協議会会長。