ホワイトエレファント
出光真子著

ホワイトエレファント

「逃げないで。勇気を出して、大人になって……」

裕福な家庭に育ちながらも生きづらく、アメリカに夢を追った姉妹がいた。

ニューヨークで芸術家として成功し父への貢献をめざす姉。
ロサンジェルスの陽光の下で、こころの闇をさぐる妹。
ふたりに訪れた明と暗。

白い建物が暗闇に浮かびあがっている。
ホワイトエレファントとは、やっかいもの、費用のかかるもの。
そしてわたし、と弘子はつぶやいた。

咲子は言った、「わたしって、相手の欲求を満足させようと、
意見に従うことばかりを考えていた。嫌われたり、怒らせたりするのが怖かった。だから、ノーと言えなかった」

暗い夜は終わるのか。夜明けの光は届くのか。

著者:出光真子
発行年月日:2011年4月
コード:ISBN978-4-938939-63-2
四六判並製 304ページ

定価(本体1,800円+税)

本書の内容

(ノーと言えない)

そう、その子を「優子」と呼ぼう。名づけたのはわたし、咲子。咲子と違って優れた子。彼女の空想が創った子。学校の、遊園地の、映画館の行き帰り、彼女はその子を夢想した。優子は咲子と同じ歳。ふたりは毎年一緒に誕生日を迎える。陽気で開放的で、誰からも好かれ、何をやっても褒められ、自信も勇気もある女の子。やって良いことといけないことを見分ける賢さもあって、必要なときには行動し、明快に発言し、自分をアピールすることができる女の子。ありとあらゆることが咲子とは正反対。優子は咲子が持っていないものを全部持っている。

誰もいない家の茶の間の丸いテーブルを、咲子はたくさんのわら半紙に描いた優子の姿で埋める。背筋をまっすぐにして、どれも朗らかで幸せに満ちた微笑みを、ぱっちりした黒い瞳の利発そうな顔に浮かべている。その一枚を手にとって、咲子は自分の頬に押し当ててつぶやく。「優子はわたし。わたしは優子」

電車の座席に坐って、優子が褒められた場面を想像する咲子はうれしくて、ひとり微笑む。前の席の中年の女性が訝いぶかしげに彼女を見る。その人とも歓びを分かち合いたくて、咲子は笑みを向ける。目の前の少女が何か楽しかったことを想いだしているらしいと、その人は微笑み返す。そこまでが咲子の中の優子だった。

突然、優子は消え去る。と同時に、咲子は恥ずかしさと悔やむ気持ちに捕らえられて、カクンと頭を垂れる。身をすくませて、膝の通学鞄の上でぎゅっと拳を握りしめて。さっき笑みを交わし合った女性だけでなく、他の乗客の好奇な視線がふりそそぐように感じられて、胸のあたりが苦しくなって息がつまる。身体中のどの筋肉も動かすことができなくて硬直したまま、電車を降りることもできない。山手線だから、電車は円の周りを走りつづける。

房子にいじめられているとき、優子に来てくださいと咲子は祈る。でも彼女は出てこない。どこかに行ってしまっている。咲子がとことん痛めつけられてどうにもならなくなると、やっと彼女は現れる。そして、房子が咲子に向かってまくしたてた、家族の恥、パンパンの捨て子、知能指数の低い、救いがたく鈍い愚か者……というような、咲子のこころにヒュウヒュウと突き刺さる言葉のひとつひとつ。その開いた傷口にそっと暖かい唇をふれて、取り去ってくれる。

(ノーと言う)

涙と汗で覆われた顔を薄い紅色に染めて話し終え、「お茶をいれかえてくるね」と、咲子は立った。

涼子の低くうなる声。ガスの点火するパチッという音。急須のお茶が捨てられ、新しい葉が作りだす音。窓の外に向けられている涼子の険しい視線。「別れなさい」と怒鳴ってから、「英人がいるし」と思案し、「わたしがこらしめてやる」と断固とした調子で、涼子が言った。

お湯の入った急須の蓋をいじりながら、咲子は涼子を見つめている。「おねがい」と言うか、「だいじょうぶ、わたしが話す」と言うか、咲子は決められない。凍りついてしまった咲子の迷いを感じて、涼子は当惑している。テーブルの上の羊羹に目を据えたまま、組んだ腕を胸にギュッとひきよせて、彼女は身じろぎしない。

咲子の内にある小さい女の子が、もっこり動いた。そして告げる。逃げないで。あなたが逃げると、英人とわたしが傷つくの。勇気を出して、大人になってと。

急須の蓋から手を離し、テーブルに指先をつき顔を上げ涼子の目を見つめて、咲子は言った。

「自分でする」
「え?」と涼子。

何か言おうと勢い込んだ涼子と咲子の視線がもみ合い、絡み合い、語り合う。

どうしちゃったの?と涼子。

変えるの。自分を変えるの!と咲子。

著者略歴

出光真子(いでみつ・まこ)

1940年、出光興産創業者・出光佐三の四女に生まれる。お茶の水女子大学付属小・中・高から早稲田大学第一文学部に進む。卒業後ニューヨークへ留学。抽象画家サム・フランシスと結婚。二児の母。妻であり母であることを超える創造表現への想いやみがたく、映像作家の道を歩む。自身の経験からフェミニズムをベースに、家庭における親と子、表現者として女性が生きる際の社会的摩擦などを問いつづける。前著に『ホワット・ア・うーまんめいど──ある映像作家の自伝』(岩波書店)。

担当者のメモ

東京三田の「済生会病院」の玄関ホールに、大きな絵がかかっています。 小さな集落の冬の夜明けです。集落はまだ眠っています。 東の山あいから朝日が差してきて、集落や田畑などあたり一面を”朝ぼらけ”の色調に染めていく一瞬を描いた作品です。タイトルは「シンフォニー早春」。画家の名前は沖津信也。

この病院に入院していた頃、ぼくは、この絵に元気をもらいました。

その絵の前を通る度に、きみも、もうすぐよくなるよ、もうじき元気になるよ、と囁いてくるのでした。「シンフォニー早春」は、快癒、芽吹き、再生などを患者のこころに与えてくれたのです。

『ホワイトエレファント』という作品に目を通したとき、とっさに思い出したのは、あの絵でした。この小説のテーマは、(ぼくの印象では)「自立」です。4人姉妹の末っ子に生まれた主人公が、いじめられ、どつかれ、誰にもノーと言えないようなトラウマを背負って生きていきます。誰でもその名前ぐらいは知っているような 裕福な家庭ですが、末っ子の叫びは父にも母にも届きません。

主人公咲子の声にまっとうに耳を傾けてくれたのは、近所のみーちゃんのおかあさんだけでした。

長じて海外留学しても、咲子は相変わらずノーと言えません。軟弱で、一人では 何もできない、自分をちゃんと表現できないアダルト・チルドレン。

しかし人生は進み、結婚、出産、家事――さらに大きな事件へと時を刻みます。
咲子はだんだん自分に気づきます。
そして夫ポールに「別れたい」と切り出します。

クライマックスは、すぐ上のお姉さん・3女房子との場面。
房子は咲子を子どもの頃から「馬鹿、脳足りん、親は乞食かパンパンか」と毒づいてきた最大の強敵。ン十年ぶりの再会にも、相変わらずの毒矢を放つお姉さんの背中に腕を回して、咲子はこういいます。
「仲良くしようよ」と。

これで救われました。咲子は自分の足で立ったのです。
あの絵のように、そこには、自立、和解、再出発などがありました。
こんなセリフが印象に残ります。
「逃げないで。勇気を出して、大人になって」。

長く暗い夜が終わって、やっと朝日が出てきた――まさに夜明けです。
主題は自立です。軟弱娘がきちんと自分で立ったのです。
カバー絵は息子さん・フランシス真悟さんの作品。
そのタイトルも「EarlyLight(dawn)」(夜明けの光)でした。
ぴったり符丁が合いました。