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風雲斎のひとりごと No.34 (2011.12.23)
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このメールマガジンは、これまで風雲舎とご縁のあった方々に
発信しております。よろしければご一瞥下さい。
ご不要の方はお手数ですが、その旨ご一報下さい。
送信リストからはずします。
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宮崎駿の『本へのとびら』
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今年も終わりです。
不安な一年でした。
時代についての論評はずいぶん目にしましたが、映像作家宮崎駿
の発言が心に残りました。宮崎は、この時代をこんなふうに言い
ます。
「20世紀の終わりのころ、僕も終末ものをやりましたけど、終末
ものが流行ったころの「終末」にはどこか甘美な感じがありました。
バブルだなんだ、お金稼いだ、って周りがよろこんで跳ねていると
きに、馬鹿ども、そのうちひどいことになるぞ、ということを描く
のには、ある種のカタルシスもありました。けれども「終末」がこ
こまで一般的に、大衆的になってしまうと、もううんざりしますね。
つまり、みんな小人になっちゃったんですよ。世界にたいして無力
になって、一円でも安いほうがいい、なんていうつまんないことの
ために右往左往している。見ている範囲もほんとうに狭くなってき
た。歴史的視野とか人間のあるべき姿とかの大きな主題が、健康と
か年金の話にすりかえられてしまいました。煙草をやめるとか、メ
タボどうとか、どうでもいいことばかりです」
「この20年間、この国では経済の話ばかりだった。はちきれそ
うなほど水を入れた風船がいつ破裂するのかとヒヤヒヤしながら、
犬を飼ったり、年金を心配したり、気を散らしながら、けっきょく
経済の話ばかりだった。何かが起こるだろうという予感はみなが
もっていたが、突如、歴史の歯車が動き始めた。生きていくのに
困難な時代の幕が上がった。破局は世界規模。おそらく、大量消費
時代文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだ」
「自分たちは正気を失わずに生活していかなければならない」
(『本へのとびら』岩波新書)。
サブタイトルに「岩波少年文庫を語る」と付されているように、
著者が岩波児童文学への思いを語った一冊。文庫のなかから好き
勝手に50冊を選び、それぞれユニークな著者ならではのコメント
をつけている。その内容が素晴らしく、ぼくはそのうち5,6冊し
か目を通していなかったことに気がつきました。この冬、何冊か読
もうと思いました。なにより、正月にやってくる孫たちにこの一冊
をプレゼントしようと。そんな印象もあって、一作家の時代につい
ての、等身大のセリフがスッと心に入ったのです。
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『人間釈迦』という本
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この一年、ずしりときた書物が、高橋信次著『人間釈迦』(�~
� 三宝出版)でした。若い頃に目を通したはずですが、読み返し
てみると、これが絶品でした。
きっかけは、この春、小林正観さんに「正観さん、久しぶりに三冊
目を書いてください」と原稿依頼をしたことです。小林正観さんの
不思議を思う度に、高橋信次さんという先達のことがずっと気にな
っていたからです。正観さんの前を歩んだ一人として、同時に、
空海、坂本龍馬など、釈迦の生まれ変わりといわれる人物の一人と
して、高橋信次さんをしっかり読んでみようと思ったのです。
『人間釈迦』�~�、『心の原点』『悪霊』などを7,8冊読みました
が、バツグンはやはり『人間釈迦』でした。あらためてすごいなと
こころ打たれます。
高橋信次さんは、釈迦が言いたかったことやその想いを、いわば勝手
に想像し、切り取り、ジグソーパズルを仕上げるように、思うがまま
に人間釈迦像を描いていきます。彼の道案内にしたがって読み進める
と、ああ、なるほどなるほどと、釈迦の逡巡と悟りへの道筋がよく分
かります。釈迦の解説者でも仏教学者でもない高橋信次さんだからこ
そ、いえ、自分が釈迦の生まれ変わりだと信じているからこそ、釈迦
はこう考えたにちがいないと確信的に筆を進めます。これは余人には
とうていできない、高橋さんならではの“代筆”ですね。
秀逸だと感じたのは二つです。
その一は、『人間釈迦』�の「出家と成道」でした。
ゴーダマ・シッタルダーは6年間の修業を経てようやく何かをつかみ
かけ、何かが分かりかけると、何かがそれを邪魔する――。それを
繰り返すうちに従者も去り、あれもこれも捨て、雑念が消え、もう死
んでもいいやと思うに至り、あれこれの執着から心が離れ、やがて
パピラの木の下で解脱します。その過程で、彼の周り、彼の頭の中に
光が差し込んできます――。この描写が素晴らしい。読者の目で言えば、
そうか、こうして悟りはやってくるのかと、その極地を見る想いでした。
もう一つ教えてもらったのは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、
正定――という八正道です。その本当の意味です。この言葉それ自体は
分かっているつもりでしたが、釈迦がわが身に照らしてそれぞれをふり
返り、八正道を会得していく過程を読むと、読者に、「わが身にもと悖るはな
かりしか」と迫ってきます。お前は正しくものごとを見ているか、正し
く思っているか、まともな言葉を話しているか――お前はどうか、お前
は実践しているか――と問うてくるのです。
ふと我が身をふり返れば、ぼくには、正見、正思、正語など、まったく
できていませんでした(今もそうかもしれません)。いびつな考えにしが
みつき、極端から極端に走り、中心軸がなく、方向が定まらず逡巡し、
こころが千々に乱れ、自分が何をしているのか分からないままにうろつ
いていたようです。
この夏、高橋さんの本を読んで、それがかなりの程度消えました。
自分がどこにいたか、よく分かりました。正見、正思、正語、正業――
そうした感覚からずいぶん離れたところにいたのです。頭をぶん殴られ
るように分かりました。高橋さんのこの労作にはとても感謝しています。
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正観さんの『淡々と生きる』
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この一年、最大のショックは小林正観さんの死でした。
世間的にいえば、62歳という働き盛りの若死でした。
ぼくはいま小林正観著『淡々と生きる』という新刊の編集に取り組ん
でいます。たぶんこの作品が、小林正観さん最後の一冊になるはずです。
この小一年ほどの正観さんの講演記録をていねいに聞いていくと、
自分の死期を意識した正観さんの想いがビンビン伝わってきます。
還暦を過ぎて病を得た、
2日に一度、人工透析を受け、
それでも全国を講演行脚していた、
つまり生死のへりを行き来していたのです。
そんな中で天皇の四方拝のことを耳にし、正岡子規の病の中の覚悟のす
ごさを知り、自分はまだまだだわかっていなかったなと反省し、
友人や奥さんの病気が、もしかすると自分の病の肩代わりをしてくれた
のかもしれないと思い至り、ああそうか、病を得るということはこうい
ことなのかと、その意味を問い直します。
その上で、
病気になって良かった、
病気にならなければ、大事なことをしらないまま死んでいっただろう、
みんな、ありがとうねと結びます。
このあたり、意識がぐんぐん昇華し、不思議な力を持った小林正観と
いう人物の質量が、それを聞く人間を怒濤のように圧倒します。
恐ろしいほど、みごとなコペルニクス的転回です。
ある関係者は「神々しいほどでした」とコメントしてくれました。
ああそうか、正観さんはこれを伝えたかったのかと合点がいきます。
そういう次第で来春一月、
『淡々と生きる』(小林正観著)ができます。
どうぞご期待下さい。
良いお年をお迎え下さい。
長くなりました。ありがとうございます。
(今号終わり)