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風雲斎のひとりごと No.82(2019.08.19)
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ある翻訳者の死
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翻訳者であり著書も多数あった平井吉夫氏が、この5月末に亡くなった
(享年80歳)。
平井さんには、翻訳家や著述家のほかにいくつも顔があり、登山家、合気道、
シンガーソングライター、福島原発事故の直後、70歳過ぎの老人たち
が立ち上げた「原発行動隊」の理事など、八面六臂の活動があった。

風雲舎の関連では『わが道はチベットに通ず』(サブリエ・テンバーケン)
の翻訳、『さあ、出発だ!』(クラウディア・メッツ+クラウス・シューベ
ルト・スラニ―京子訳)を出版する際に、彼はわがことのようにていねいに
朱字を入れ、力を添えてくれた。

風雲斎が愛読したのは『石と笛』(ハンス・ベンマン 河出書房)。
ドイツファンタジーの名品。ぼくは何かにつっかえたりすると、
これを引っ張り出してよく読んだ。ほかに『スターリン・ジョーク』(河出)
『任侠史伝』(河出)など多数。
――とここまではややフォーマルな平井吉夫さんのプロフィール。

以下はぼくの私的な思い出(弔辞)。
彼とは60年前の安保闘争からの付き合い。

「平井吉夫くんを送る」
『槍錆』という、きみの小エッセイを読んだのは2年ほど前だった。
一読して、へえ、そうだったのかと愕然とした。
そこには、かつてのにっくきヨヨギという仇敵(民民派も構改派も含め)
と再会して、きみは「懐かしき旧友として抱擁した」とあった。
かつての、あの不倶戴天の敵を、きみは許した!

60年安保・早稲田のころ、きみはいやな奴だった。
頭が切れ、弁が立ち、行動力があり、女にもて、つまり、おれにない
ものを全部もっていた。きみは他人を評するに辛辣で、めったに許す
ことをせず、痛いところを的確に突いた。

古希を迎えたころ、きみはがんになった。
変わったな、と思ったのはそのころからだ。

人格が一変した。
人を評さなくなった。
悪口を言わなくなった。
ある人物が話題に上ると、きみはぐっとこらえるように、
「……あいつにも、こういういいところがある」と口にするようになった。
さらに時折り、「ぼくは本当は、いやな、下劣な人間なんだ」と口にするようになった。

ぼくはその変身に驚いた。
きみを変えたのは何だろうと。

人を評しない。
悪口を言わない。
ただ、じっと見ている。

そんなことができるものかと、おれは自問した。
おれは相変わらずへらへら他人を評し、軽々に悪口を言い、ちゃらちゃら
している。なかなか直らない。小人たるゆえんだ。

きみの槍はあっちこっち多岐にわたっていたようだが、おれは文筆以外の
ことはよく知らない。
『任侠史伝』(河出)の「あとがき」には、きみの想いが溢れていた。
『石と笛』(ハンス・ベンマン・河出)の名訳には、心が震えた。石が命を
持つかのように煌めき、笛が鳴る場面では、読み手の心をくるくる踊らせた。
その一節にこんな文章がある、
「そのときアルニがいわんとしたのは、人が生きてゆくには、まだこの
ほかにも、けっしてこれより悪くない道があるはずだ、ひょっとしたら、
いまだわれらの知らぬ、もっとよい生き方もあるのではないか、という
ことだろう。アルニはそれを、一生のあいだ、求めつづけたのです」
ここに出てくるアルニは(たぶん)翻訳者自身のことだろう。

『わが道はチベットに通ず』(サブリエ・テンバーケン・風雲舎)の訳も
絶品だった。この作品に惹かれてオーストリア在住のスラニ―京子さんと
いう日本人女性が『さあ、出発だ!』(クラウディア・メッツ+クラウス・
シューベルト・風雲舎)を翻訳したいと言ってきた折に、きみはわがこと
のようにていねいに朱字を入れ、その完成に力を添えてくれた。

その延長上に『槍錆』があった。
憎い00を許す。
仇敵を許す。
裏切ったやつを許す。
絶対に許せないやつも許す……。

「許す」ことは、人間最後に与えられた最上の行為だと、多くの覚者が
指摘する。スピリチュアル世界でも、最後の関門は「許すこと」だ。
キリスト教の世界でいうアガペー(愛)みたいに。
だからおれは、『槍錆』をもうちょっと敷衍して一冊の本にしないかと
声をかけたことがあった。でももう時間がなかった。

大きな円を描くように、きみは逝った。
最後の枕頭にあったのは『資治通鑑』全100巻だったという。
「義侠心」という言葉を愛した平井吉夫という任侠の徒は、この世の
在りようにどんなユートピアを夢見ていたのだろう。
うん、これから寂しくなる。

でも、まあいいか。
おっつけ、おれも行く。
また一杯やろう。
ありがとう。合掌(2019・5・30 山平松生)

彼が亡くなった後で高校教師をしていた友人の死もあり、
しばらく仕事が手につかなかった。
やるせなさ、さみしさ、はかなさが押し寄せてきて、
何をする気も起きなかった。
ただ悲しかった。
でも人間は生きていかねばならない。
サボっていたブログも再開しようと思った。
定期的に、ちゃんと書こうと思った。
今後また書きます。どうぞよろしく。

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うれしい手紙
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病んでいる友人から手紙が届いた。
美しい言葉が連なっていた。
一遍の詩みたいに。
(以下の文面……)

「制子(奥さん)が脳出血で倒れて11年半。
脳外科病院に入院。
動くことも、しゃべることもできませんでした。
2か月後、リハビリ病院に転院。
私の顔を見ても、わかっていたのか、どうなのか。
1日2回運動リハビリ、言葉リハビリを始めました。
リハビリを続けて1か月後、立ち上がれました。
その3日後、歩いたのです。
5歩か6歩ぐらいでしょうか。
そのときのことは今でも覚えています。
リハビリの先生、制子、私……。
涙が出ました。
うれしかった。

それから11年たちます。
制子は、(動きは)不自由ですが、
自分の考えること、思うことを、
たどたどしく伝えることができます。
うれしいと笑い、
悲しいと目をつむり、
つえを使ってゆっくり歩きます。

不思議です。
神経、心経、生きるようにつながるのでしょうか。
今も、週2回リハビリ病院に行っています。
朝9時半から午後3時まで、けっこうハードです。
いろんな人がいます。
仲間意識というのでしょうか、喜んで行きます。

私のこと。
食道ガン。ステージ3。
5年生存率40%。
いま4年過ぎ、転移なし。
すこぶる元気です。
10キロ減った体重が2キロ増。
ウイスキーも少量。

『よかった、脳梗塞からの回復』という本、ありがとうございます。
励みになります。うれしかったです」
(伊豆・松崎在住の旧友渡辺誠さんからの便り。お許しを得て)

ちなみに文中にある『よかった、脳梗塞からの回復』は小社刊の一冊。
金沢武道さんという脳内科医師の手によるもので、風雲斎も患者として
10日間実験入院しました。
この本を出版して以来、それらしい友人を20~30人ほど金沢先生
の病院にご紹介しました。歩けるようになった、手が上がった、動きが
しっかりしたなど、朗報が続いています。こういうとき担当編集者は
ひそかに小躍りするのです。
(今号終わり)