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   風雲斎のひとりごと No.2 (2006.05.22)
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  不思議な人
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小林正観さんについての多くの方々から問い合わせがありました。
あらためて小林さんのプロフィールに触れておきます。
この世には、不思議な人がいるものです。
小林正観――この人も誠に不思議なお人です。

学生の頃から、超能力の研究に明け暮れ、透視ができるようになり、人の死も見えます。スプーン曲げなどは朝飯前でした。
その上で、10数万人ほどの人相・手相を観てきました。
実証的、統計学的な観察を長いこと続けると、人間やものごとの間に共通するものが浮かび上がります。
それを、小林さんは「宇宙方程式」と名付けました。この世を貫徹する大きな法則です。
たとえば、「投げたものは返ってくる」「この世に悲劇や不幸は存在しない。
そう思う心があるだけ」「偶然はない。すべては必然だ」などという方程式です。

小林さんは、風雲斎にとってはおっかない人でもあるのです。
ある対象をひたと見つめると、その人の心、財布の中身、交友関係、先祖、会社での人間関係等々のことなどがすべてわかる……
そんなおっかない人です。風雲斎はある時、そういう凝視を受けたことがあるので、そのおっかなさがわかっているのです。

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  『釈迦の教えは感謝だった』という本のこと
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その小林正観さんにお願いして、『釈迦の教えは感謝だった……悩み・苦しみをゼロにする方法』という本を出版したことは前号で触れましたが、「なんのこと? よくわからないぞ」という声が何人かから届きました。

小林さんは長い間、人相・手相を見て、人生相談にのってきたのですが、21世紀の寸前から、相談ごとの内容がガラリと一変したことに気が付きます。それまでは相談ごとは自分自身のことでした。それが、21世紀の寸前から、他人ごとに変わったそうです。
「子供が勉強をしないけれども、どうしたらいいか」
「子供が不登校になったけれども、どうしたらいいか」
「主人が酒を飲んで12時過ぎにしか帰ってこないけれども、どうしたらいいか」
「叔父叔母がケンカばかりしている。どうしたらこの人達を仲良くさせることができるか」
それらを凝縮してみると、次のことに気が付きました。
どうしたら自分以外の人を、自分の価値観の中に連れてくることができるか。
要するに、他人を自分の好みどおりにしたい、という相談ごとへと変わったのだそうです。

小林さんは考え込みます。
「この世の悩み苦しみって、他人を思いどおりにすることだっけ?悩み苦しみとは、他人を思いどおりにすることだっけ?」

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  お釈迦さまの対応
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なぜだろう、ふーんと疑問を感じていた小林さんは、あるとき、「釈迦は、その人自身の相談ごとなら懇切丁寧に相談に乗ってあげたのに、
他人ごとだと、ぷいと横を向いて結跏趺坐して、瞑想に入ってしまった」という文献を読みました。
そこで小林さんはハタと気がつきます。
「ああ、お釈迦さま、あなたはそういう対応だったのですか」と。
そのことについて釈迦がどこかで触れていないはずがないと思って、
「般若心経」を読んでみました。すると、ありました。釈迦は2500年も前に、「般若心経」というお経を通して、そのことについて触れていました。

お釈迦様はこの世の悩み・苦しみを「四苦八苦」と呼びました。
一般論ではなく、人間の本質的な悩み・苦しみを、ちゃんと概念規定していたのですね。
四苦とは生・老・病・死のこと。生まれて、老い、病んで、死んでいく。これは宿命です。
五番目は「愛別離苦」(あいべつりく)愛する人と別れなければならない苦しみ
六番目、「怨憎会苦」(おんぞうえく)怨んで憎む人と会わなければいけない苦しみ
七番目、「求不得苦」(ぐふとくく)求めても得られない苦しみ
八番目、「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)五つの感覚が盛んで、それがもとになって苦しむという苦しみ。
五番目から八番目からは、いわば運命です。日常生活次第では変えられるものです。この八つを「四苦八苦」と呼んだのです。

この八つに共通するのは、「思うようにしたいのだが、それが叶わない」ということです。
つまりこの世の悩み・苦しみとは、「思うようにしたいのだが、それが叶わないこと」と釈迦は見抜いていたのですね。

では、そこから脱却するにはどうするか。
「受け容れなさい」というのがお釈迦様の答えでした。受け容れて、さらに受け容れ、それを突き詰めていくと、「ありがとう」と感謝するところまでいく……それが釈迦の教えだったというのです。

読者の反応が素晴らしいのです。
「般若心経がわかった!」
「これを読んでストレスが消えた」
「いろんな人の般若心経本を読んだが、よくわからなかった。この本を読んで、お釈迦さまの伝えたかったことがよくわかった」という投書が多いのです。ユニークで、ラディカルな般若心行経の解釈です。

そういえばそのむかし、高田後胤師の本を読んだことがあります。
あのときも、今回あらためて松原泰道師の『般若心経入門』、寂聴さんの『寂聴般若心経』、新井満氏の『般若心経』などに目を通しましたが、結局よくわかりませんでした。
ご無礼ですが、外辺をぐるぐる回っているが、なかなか核心に至らないという印象でした。

(『釈迦の教えは感謝だった』は4月末、風雲舎から発売され、一週間で一万部が売れました。いま二刷りに入っています。八重洲ブックセンター・人文科学ベストセラー第一位です)。

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  「愛別離苦」に悩んでいた風雲斎
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さてここから風雲斎の出番です。
四苦八苦を読んでいちばんズキンと来たのは、「愛別離苦」でした。
小林さんは、「般若心経」は「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)がわかればいいというのですが、凡人の風雲斎には「愛別離苦」でした。愛する人と別れなければならない苦しみ。

おふくろが亡くなったころから、バタバタと親しい人の死に出会ってきました。
飲み助の大先輩、西城信というわが師匠。会社のボス、かわいがってくれたおじさん。井深大さん、ゴルフ仲間、原稿依頼中だったある学者先生……敬愛し、大好きだった人がどんどん亡くなります。
相談する人がいなくなったと、風雲斎は泣いていました。それもこれも「思いどおりにならない」という事実です。思い通りにしようと思うことをやめて、その事実をただ受け容れればいい、これが小林さんの答えでした。
「ああ、そうなりましたか」と淡々と受け容れる。うーん、そこのところが要諦なのかな……

そういえば、ついこの間読んだ五木寛之氏と帯津良一氏との対談で、五木さんがこんなことを言っていました(月刊文藝春秋5月号)。
「友達仲間が死んだといって、嘆き悲しむことはなくなった。
おお、お前も逝ったか。俺もぼちぼち逝くからな。待ってろよ」と淡々としたものだと。

いい悪い、好き嫌い、認める認めない……起きた事実に対して、あれこれの論評を加えず、ああ、そうなりましたかと淡々と受け容れる……うーん、そうなれるかなあ……みなさん、どうですか。