そうか、こういう人生もあったんだ!
満州引き揚げ婦人、波乱万丈の80年。
試練の果てに、「光を運ぶ人(ライト・ワーカー)」となった一歌人の80年
これでもかこれでもかという試練を受けながら、心を正し、まっすぐ歩み、ついに「光を運ぶ人」となった一歌人のドラマティックな人生。
(ISBN978-4-938939-82-3)定価(本体1400円+税)
7月下旬発売
昭和20年、敗戦前後の満州。
召集され出征した父、ダダダダーンという機銃掃射の下で
逃げ回った高粱畑、チフスによる高熱、血便。髪は抜け落ち、
身体中の吹き出物をかきむしっていた著者。それに感染して
亡くなった母、残留孤児となった弟と妹。帰国して肺結核。
つかの間の幸せを得たものの、70歳過ぎの脳梗塞、慢性
硬膜下血種――誰とも話したくない、電話にも出たくない。
そこから彼女の本当の人生が始まった。
辛いこと、悲しいことを突き抜け、恨まず、怒らず、すべてに
赦しを与え、「すべておまかせ……」という揺れのない心に到達。
唯一、転ばないように気をつけています。
著者 22才の時。療養所にて(本書 第2章)
目次
(はじめに)いま輝きの人……迫 登茂子
《第1章》生かされて
満州へ
内気で、一人遊びが好きな子供
「あなたの洋服を着てみたい」
わが家の人々
日本が敗けた日
父が出征して三カ月後の終戦
発疹チフス――弟、妹との別れ
帰国
《第2章》初恋の人
結核を発病
俳句、短歌に親しむ
父の戦死の知らせ
初恋の人
呼吸をしていない彼
夢で見た観音さま
大阪へ
母の叱責
今の夫との出会い
書を学ぶ
《第3章》「かんのんじ、かんのんじ……」
坐禅で、変わりたい
「ものひとつもたぬ袂の涼しさよ」
我執が出たらお経を唱える
無関心の悲しさ
ご詠歌とのご縁
お金の苦労、九段会館で働く
大恩人
観音さまに護られていた私
《第4章》妹、弟……五十年ぶりの再会
夫の転勤
もしかしたら妹?
弟と五十年ぶりの再会
「異国の姉弟が相見守り生きた五十年」(「家庭主婦報」)
図們市、日本人難民収容所の兄妹
入党直前、日本人だと知る
思いがけない国際電話
この世で終わらない姉弟の情
育ててくださった中国の方に感謝します
《第5章》迫登茂子先生と「十一日会」
「十一日会」という不思議な集まり
ハートのお月さま、そして蓮の花
永平寺東京別院にて在家得度
脳梗塞!
誰にも会いたくない
太陽さんありがとう
3・11東日本大震災
慢性硬膜下血腫!……
迫先生に書いていただいたお守り!
《第6章》すべておまかせ
ハートの月と不思議な夢!
みなさん、ありがとうございます……
不思議な体験!
(あとがき)父、母、兄弟たち、そして私のための小さな歴史
雪田幸子・歩み
著者プロフィール
雪田幸子(ゆきた・さちこ) 1935(昭和10)年大阪市生まれ。1歳未満で一家と渡満。41年遼(りょう)寧省(ねいしょう)鞍山(あんざん)小学校入学。45年吉林省図們(きつりんしょうともん)市に転居。同年5月召集令状により父牡丹(ぼたん)江(こう)に出征。8月15日敗戦。46年発疹チフスに罹患。4歳の弟、2歳の妹を10歳の著者に託し母死す。9月新京(長春)、奉天(瀋陽)、コロ島を経て興安丸で帰国。小、中学校を終え佐世保南高等学校入学するも肺結核のため退学。54年短歌結社「形成」に参加。その縁で初恋の人と出会い婚約。国立療養所「清光園」に入院。肺切除に成功退院。61年大阪にて就職。62年シベリア抑留中の父戦病死との知らせを受く。東京本社に転勤。65年雪田鴻一と結婚。66年書道を学ぶ。75年観音寺にて坐禅修行。86年残留孤児となっていた妹節子(韓素雲)と、95年弟保定(王強)と再会。2000年「十一日会」迫登茂子師の笑顔に出会う。06年在家得度。08年脳梗塞により右半身不随。車椅子暮らしとなる。12年慢性硬膜下血腫。15年「すべておまかせ」という心境に達し、転ばないように気をつけて暮らしている。
本文より
毎朝、日の出を拝みたくて、病室の東側の窓に車椅子で移動して日の出を待ちます。空と山をまっ赤に染めて太陽が昇ってきます。どんどん迫って来ます。いつものように、「太陽さん、ありがとうございます」と手を合わせて目を閉じます。片手なので、心の中の合掌です。いつの間にか太陽さんにそっくり抱かれているのです。あら、私が太陽になったのかしら? とても熱くて眩しい! 木の葉も飛ぶ鳥さえもニコニコ笑っているようです。景色が今までとはガラリと違うのです。あ、私は生まれ変わった!
お腹の底からクックックッと笑いが込み上げてきて、何を見ても、何を聴いても、嬉しくて嬉しくて、笑いが止まらないのです。つられて同室の皆が笑います……。(本文より)
編集者のメモ
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「十一日会」という集まり
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迫登茂子さんという、神のお言葉を取り次ぐシャーマンご婦人
がいる。シャーマンといっても、おどろおどろしい霊能者の表情
ではなく、笑顔のきれいなおばさん。理屈ではなく、感性の人。
神からのご意志に感応して、「自動書記」といわれるスタイルで、
神のお言葉をワアーっと紙に書く。もう何万枚書いたか数知れ
ない。
その例会が「十一日会」という集まり。雨が降ろうが嵐になろ
うが、例の3・11だろうが、毎月11日になると、小金井市の
彼女の自宅で続いている不思議な時空間。老若も、男も女も、右翼
も左翼も関係なし、誰でも、いつでも歓迎の集会。
僕は20年ほど前からこの会には顔を出していて、もう最古参の
メンバーになったようだ。何がいいかというと、ここで過ごす数
時間は、世間と離れ、俗塵を洗い流し、心身ともに清められ、
ほっとするから。
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雪田幸子さんという歌人
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10年ほど前にこの会で出会ったのが雪田幸子さん。
1935(昭和10)年生まれだから、ちょうど80歳。
1年ほど前、彼女が生い立ち、来し方をこの席で話したことがあっ
た。
満州で過ごした小学5年生までの平穏な時代、敗戦間際から日本に
引き揚げるまでの苦労、敗戦間際に兵隊にとられた父、1946年
頃の大混乱の満州で、腸チフスにかかって40度の高熱と血便が続
いたこと、それに感染した義母が、10歳の彼女と4歳の弟、2歳
の妹を残して亡くなったこと、10歳の彼女にはなす術がなく、
二人は残留孤児として生き別れになったこと。
へえーとぼくは驚いて話に聞き入っていた。
半端な苦労ではない。すさまじい身の上話が続いた。
佐世保に引き揚げて高1で肺結核にかかって中退したこと、
国立療養所に入院して前後9年間の闘病生活を送ったこと、
短歌のご縁で初恋に人に出会い、婚約したものの、彼は薄命だった、
つかの間の幸が訪れ、人並みに結婚生活を送ったこと、
姑との確執、夫の大借金、パート勤め、
自分とは何かを求め、座禅を求め、仏門に帰依したこと、
70歳過ぎ、脳梗塞で片マヒになった。
右半身が動かなくなり、車椅子暮らし、杖一本が頼り。
誰にも会いたくない、電話に出たくない日々――、
そんな自分史を淡々と語って、彼女の話は終わった。
みんなびっくりしていた。
日頃の彼女のしとやかな、垢抜けした、貴婦人のようなたたずまい
から想像もできないようなすごいお話だった。
そんな背景があったとは僕も知らなかった。
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一からパソコンを習って書いた自分史
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誰かのお話を聞き、「書いてみませんか」
と誘うのが僕の商売です。
このときも、僕は「雪田さん、書いてみない、遺書のつもりで……?」
と彼女に声をかけました。それほど強烈な彼女の自分史に、僕は感動
したからです。
こういう場合、通常、人は、まず書かない。
書こうと思っても、書けない。
素人には無理のないことです。
ところが1年ほどたった頃、驚きました、
「はい、書きました」と言って、雪田さんは原稿を送ってきたのです。
彼女は右半身が動きません。
ペンも筆も昔のように使えません。
不自由な左手の人差し指と中指を使って、パソコンを一から習い、
何度もやめようと思いながら、「はい、書いたわ……」とやり遂げたの
です。
もちろんヘボです。
でも事実がありました。
経験した人でなければ書けない真実がありました。
こういうたぐいの本は多々ありますが、どの作品と比べても遜色の
ないすばらしい原稿です。
「嘘のない事実だけを書いた」からです。
そこから編集作業が始まりました。
途中、ケンカもしました。
編集者のエゴが出てきて、彼女とぶつかるのです。
ケンカをすると、迫さんが、
「あのね、あんたがたね……」と優しく説教なさるのです。
迫さんのありがたいお話を20年も聞いていながら、僕は恥ずかしく
なって雪田さんに謝りました。
そうしてできたのが、この一冊です。
7月末に店頭に出ます。
もともと雪田さんの自分史ですから、私家本、つまり本屋さんの
店頭に並ばないそれをイメージしていたのですが、いい出来なので、
一般書として公刊することにしたのです。
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歌人としての著者
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著者はなかなかの歌人です。
いい歌がいっぱいあります。
戦争を契機となして負ひて来し不幸は吾のみにあらずと思ふ
われを惹く何かは知らず花冷えの仏像展に一日過ごしつ
ルノアールの絵を見たき思ひしきりなり今朝のこころの棘(とげ)棘(とげ)として
夜の闇に一つ浮かびし街灯のまたたきよ生きて何を為し来し
肉親の縁薄く生きてきし吾に常に温かき他人との愛あり
私とは何者なるや今日もまた鏡の中の吾と向き合ふ
圧巻は、彼女が悟りに近いところに到達する箇所です。
こんな歌があります。
生かされて今在る命ありがたし上り来る陽にただ手を合はす
いかやうなことがありても揺るがざるすべておまかせわたし
のこころ
辛いこと、悲しいこと、怒りなどがいっぱいありましたが、
すべて赦しました。そんなものはすべてチャラだと言い切るのです。
今の彼女は、
たんたんと吾の介護に過ごす日々この夫(つま)が居て夫と在る幸
と彼女はニコニコしています。
唯一の願望は、転ばないように気をつけています。