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風雲斎のひとりごと No.56(2015.6.8)
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このメールマガジンは、これまで風雲舎とご縁のあった方々に発信して
おります。よろしければご一瞥下さい。ご不要の方は、お手数ですが
その旨ご一報下さい。送信リストから外します。

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友の死
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50年来の友が死んだ。
たぶん77か78歳。
近くを流れる川の河川敷での死だという。

友こと佐藤粂吉は東北大学で経済を学び、60年安保の全学連中央
執行委員だった。仙台から上京するには、下駄ばきだった。
当時一年間の停学処分を喰らい早大での活動を封じられていた僕は、
文京区金助町(東大竜岡門のそば。まだこの町名が残っているかな)
の全学連書記局(といってもバラック一軒家)に駆りだされ、ビラ
撒き、アジ檄文のガリ刷り、電話の応対にこき使われていた。オル
グと称して、あっちこっちの大学に飛び回ったこともある。書記局
には教育大の神保誠、東大から山田恭暉らが常駐して、早大の永見
尭(たぶんこの字だった)、東大の青木昌彦などが中執として出入り
していた。粂さんとはそこで出会った。東北弁といい仙台といい、
同じ東北の匂いを発する彼とは長い付き合いとなった。

福島県生まれの粂さんは中学生のころ、「お前は将来何になるのか」
と担任に問われ、「おれは百姓のために一生を捧げる」と答えた。
体制を変えることを夢見て、就職することもなく改革者の道を進んだ。
運動が瓦解し、みんな四散すると、音信が途絶えた。

僕が出版社に勤めちゃらちゃらしていた頃、彼自身の考えをまとめた
「粂吉通信」が届くようになった。ボールペンで手書きの、厚みの
あるレポートだった。彼が選んだ道は、自分でメッセージを発する
ことだった。「通信」には、変わらず革命の必然が説かれ、陰鬱な
文章で状況と時代の分析があった。用務員、警備員などのアルバイト
でメシを食っていた。

僕が会社を辞め自分の出版社を起こした際のパーティーに、なぜか彼も
いた。「……『時間の共和国』という大著をものしてやるから、これを
出版しろ、これは売れるぞ……」と意気軒昂だった。ブントの親分の
一人古賀さんの山小屋で寝泊まりしていたとき、古賀さん自慢のカヌー
が沈(ちん)したことがあった(二人乗りだったので僕は乗っていなかった)。
粂さんは山中湖に放り出され、「助けて……」と大騒ぎになった。
変革者は金槌だった。

しばらく間をおいて「粂吉通信」が復活した。封書からファックスに
変わり、途絶えたり復活したり、成り行きだった。内容はつまらなく
なった。展望も鋭い分析もなく、同じところを空回りしているようで、
僕はろくに読みもせず、くずかごに捨てた。あれ、来なくなったなと
思いかけたころ、この5月に訃報が届いた。

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「せきをしてもひとり」(尾崎放哉)
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粂さんは酒も飲まず、女の噂も聞かなかった。五欲には縁がないよう
で、唯一好きだったのは碁だった。僕よりちょっと上の四段か五段。
といって碁に入れあげる風でもなかった。彼が何より好きだったのは、
議論だった。革命がテーマになると、溜めたものをぶちまけるように
延々語った。

でもそれも途絶えた。
自分の投げるボールに誰も反応しない、みんな自分のことで忙しい、
かつての仲間の会合に出ても、話がかみ合わない、大義を忘れて、
どいつもこいつも下らんことに熱中している、お前ら、一体どう
したんだ……そんな気分だったのかもしれない。

そうして粂さん深く内訌していった。深く内から自分を通し、世間
を睨(ね)めているようだった。現実の場では何にもできない自分を意識
しながら、こう在るべきだ、こう在らねばならぬというゾルレンと
の距離を推し量っていた。世間で言えばそれは明晰さの証明で、
その上で、当面のちゃらちゃらした仕事にバランスを取るのが普通だ。
「七十歳を過ぎると誰も雇ってくれないよ」という現実のやりきれ
なさと、はるか離れた灯の距離に、粂さんにときとして敗北的な
心情の暗さがやってきたのではないだろうか。それは死においてしか
得られないのではないかと。

自分の発言に応じる人がいない……これはつらい。
批判はむろん悪口、雑言でもいい。レスポンスがないと、人は孤独に
陥る。孤立、妄想……それは常日頃、僕らの感じている恐怖だ。
人間はそこらじゅうにいっぱいいるが、対話者はいない。想いを聞い
てくれる友人もいつしか消えていく。
「せきをしてもひとり」という法哉の句が浮かぶ。

目先の仕事があり、女房がとわずかな友がいる。
ありがたいことだ。
いつも含羞を浮かべていた彼の顔を思い出す。
粂さん、ゆっくり休んでくれ。
来世でまた会えるはずだ。
また一局やろう。合掌。

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僕の姉貴分の書いた一冊の本
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これはちょっと明るい話。
雪田幸子さんは昭和10年生まれの八十歳。
「十一日会」を主宰している迫登茂子さんの席で知り合った。
迫さんによれば、きれいで、おしゃれ、垢抜けしている。
上辺だけのことではなく、内面からの美しさだと。

一見すると何の悩みもない楚々たる奥様だが、その歩みは、
苦労と試練の連続。満州育ち、五年生で敗戦。父はシベリア抑留
中に戦病死、母も現地で亡くなった。10歳の雪田さんに遺された
のが、2歳と4歳の妹と弟。二人は残留孤児となった(50年後に
再会)。ダダダダーンという機銃掃射に高粱畑を逃げまどいながら、
当時、大流行の発疹チフスにかかり、40度の高熱、血便。看病し
てくれた義母は雪田さんのチフスに感染して亡くなった。

帰国して高校に入ったとたん、結核の宣告。7年間の療養所暮らし。
短歌のつながりで初恋の人を得るが、薄命だった。俳句、和歌との
長い付き合いが始まった。こころの動きを吐露するこの道は、どれ
だけ彼女を慰めたくれたことか。何百首、と書いた。

その後つかの間の安逸はあったが、七十歳過ぎ、雪田さんは脳梗塞
で車椅子の生活になった。右半身がマヒしていて、杖なしでは一歩
も歩けない。自慢の筆を振るうこともできなくなった。さらに慢性
硬膜下血腫が追い打ちをかけた。身体のバランスが取れず、ダルマ
さんのようにコロンと横倒しになる。人の顔を見たくない、電話に
も出たくない。

「なぜこんなに……?」と不運を嘆かないでもなかったが、その後
すべてを受け入れるようになった。悲しみ、恨みつらみ、怒りを通
り超して、一切おまかせの心境になった。

以前よりきれいになった。
この人のオーラは汚れないのだろう。汚れを跳ね返す人、なのだ。
そういえば雪田さんの好きな花はハス。泥田から立ち上がるハスが
あんな荘厳な花を咲かせるように、いま雪田さんは光り輝いている。

一年ほど前、「そろそろ書いてみる?」と水を向けた。
「うん、書いてみたい」とのご返事。
パソコンを習い、左指一本で200枚近い原稿を書き上げた。

自分にずっと付いている観音様が護ってくれたのだと雪田さんは言う。
それがタイトルになった。
『観音様に護られてーー“すべておまかせ”で生きる』(雪田幸子著)
はもうじき出来上がる(7月刊 予価1200円 風雲舎)。

本屋に並ばない私家版と考えたが、出来がいいので、「風化しつつある
当時のことを遺したい」という彼女の言を入れて、公刊にした。
度重なる試練をくぐり抜け、澄み切った境地に至った一女性の生き方が
すばらしいから。爺さん婆さんばかりではなく、若い人にも読んでもら
いたい一冊。

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保江邦夫先生vs.山本光輝先生の「口から出任せ講演会」
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●7月4日(土曜日)13:45〜16:30
●東京青山 東京ウィメンズプラザホール
●参加費 5000円
お二人の著『神に近づくには波長を合わせればいい!』刊行後、
アトピーが消えた、枯れた木が再生した、具合がよくなったなどの
グッドニュースが、山本先生のところに来ているそうです。
口から出任せは、ホラ吹きではなく、お二人の魂からの雄叫びです。

20人分のぐらい余席があります。お出かけください。
お申し込みは → (株)風雲舎 電話03-3269-1515 ファックス 03-3269-1606
mail@fuun-sha.co.jp 詳しくはhttp://www.fuun-sha.co.jp/
(今号終わり)