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風雲斎のひとりごと No.32 (2011.10.22)
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このメールマガジンは、これまで風雲舎とご縁のあった方々に
発信しております。よろしければご一瞥下さい。
ご不要の方はお手数ですが、その旨ご一報下さい。
送信リストからはずします。

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さようなら、小林正観さん
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10月12日、小林正観さんが亡くなりました。
その訃報を耳にして、とっさに思い出したのは
「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉です。
「般若心経」の中にある、四苦八苦の一つです。
愛する人、親しい人と別れなければならない苦しみ――
正観さん、あなたはその意味を、そう解説しました。
いま、あなたの訃報を前に、「愛別離苦」の意味と、その重さを、
じっと噛みしめているところです。

でも正観さん、そのとき、あなたはこう続けました、
「お釈迦様は“四苦も八苦も受け容れよ。そうするとすべての
悩み苦しみが消える”とおっしゃったのですよ」と。
そうですね、「生」「老」「病」「死」という四苦は間違いなく
やってきます。
「愛別離苦」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」
「五うん盛苦(ごうんじょうく)」という八苦もやってきます。
そこに共通するのは「思いどおりにならない苦しみ」でした。
「それを受け容れなさい、すると人生がもっと楽になりますよ」
というのが正観さんのお話でした
(『釈迦の教えは“感謝”だった』風雲舎刊)。

はい、正観さん。そういたします。
あなたの死を、ただひたすら嘆き悲しむのはやめます。
生死を超えた付き合いですからね。
そういう風に生きていきます。

…………
観自在力
…………

正観さん、これまであなたに教わったことはいろいろありますが、
その中の大きなひとつは、
「山平さん、自分の力を捨てたらどうですか。それはちっぽけな力です。
もっと大きな力に自分を預けたらどうでしょうか。楽になりますよ」
というものでした。もう7,8年ほど前のことです。あの頃は、ぼくは
何でも自分の力で決めたがるイヤな編集者でした。あれ以来、ぼくは
ささやかですがそちらの方に向けて舵を切りました。

もう一つの出来事には、腰を抜かすほど驚きました。
伊東の山荘で3日3晩の取材中の出来事でした。
あなたはそれまでの仕事の話をピタリとやめ、ぼくの顔をじっと
見てこうおっしゃいました。
「山平さん、ここに000万円あります。これを自由に使って下さい」と。
唐突に、且つはっきりそう言いました。取材中のぼくを見ていて、
一瞬にして、ぼくの会社の経済的苦境を見ぬいたのでしょう。
ぼくがそんな事情をこれっぽっちも口にしていないのにです。
しかも、ぼくが当時必要だった金額をズバリ口にして、よければこれを
使いなさいというのです。

透視力などという生やさしいものではありません。ぼくの心中の秘中
の秘がどうして分かるのでしょうか。これが、お釈迦様がときおり見せた
という「観自在力」というものかと、ぼくは心底驚きました。
お釈迦様は一目で、その人の悩み苦しみがわかったそうですね。
あれ以来、ぼくはあなたを”透き通った目を持つ人”、”すごい人”
とリスペクトするようになりました。
いや、畏怖したのです。

あの一件は、その昔読んだある逸話を思い出させてくれました。
今東光と川端康成という当時売り出し中の若い文学者が
「生意気な坊主がいるから一丁やっつけてやろう」と、大本教の
出口和仁三郎をとっちめに出かけていったときのことです。
和仁三郎は初対面の二人の若者に向かって、
「おい、そっちのでかいの、お前さんの父母はこういう生まれで、
こういう暮らしで、いまこうして暮らしている」と切り返したそうです。
でかい方(今東光)には、それがすべて思い当たる内容だったそうです。
一方、小さな方(川端康成)については、
「いまお前さんの懐にはいくらいくらのゼニがある」と小銭の果てまで
言い当てました。若い文士たちは和仁三郎たたきどころではなく、
抗弁の余地なく、這々の体で逃げ帰ったそうです。
これもある種の観自在力というものでしょうか。
ぼくは10年ほど前にそれを読んでいて、且つあなたのパワーを目の
当たりにして、この世界のすごさを認識したのです。

………………………
アセンションですか
………………………

正観さん、この1,2年の糖尿病・透析の日々はつらそうでしたね。
ぼくの目には、病を得て正観さんがどんどん変化していく様子が
感じられました。講演録やお話の中味に、「おや、正観さん、変わったな」
と感じさせるものがあったからです。
この春、久しぶりにお訪ねすると、
「……病を得て、少々見えてきたものがあります」と前置きしながら、
「透析する以前には、透析なんてするくらいなら死んじゃった方がいいと
思っていました。悟っているようですが、そうじゃないんですね。」
「本当に悟っていれば、それでも平然と生きていく。そっちの方が本物
なんだと気がついたのです」
「正岡子規という人は、そういうものを乗り越えて、平然と生きました。
それが本物なんですね」
などと、言葉をつなぐのです。
認識の変化? いえ、そんなレベルではありません。これまでよりも、
もっともっと高いところへ上昇している――そういう感じです。
アセンションですねというと、はははとお笑いになりました。
「正観さん、そういう変化を入れて3冊目を頂戴できませんか」とお願い
すると、
「いいでしょう、これまでとは違った硬派な本になるかもしれませんね。
それは面白そうですね。やりましょう」ということになりました。
4月、6月、8月、9月と追っかけに入りました。
9月の末には、『淡々と生きる』が仮タイトル。以前の同じ内容の講演録に加え、
最終章に新たに語り下ろしを加える――そんな風になりました。

しかし正観さんにとって、病はきつかったようです。
「死んでも生きても、どっちでもいいのです」などとおっしゃいました。
余分なものをそぎ落とし、どんどん透き通っていくようでした。
まるで自分の残り時間をちゃんとご存知だったように……。

あなたは講演に行く先々で、4時間ほどかけて透析という処置をうけ、
その体で次の町へ移動していました。さぞ気鬱なことだったでしょう。
食うことにも旅することもさして意欲を見せなかったあなたは、
心優しい人びと、気持ちの通じあった人たちと言葉を交わすときが、
とても幸せそうでした。「見て下さい、こんな優しい人がいるんですよ」
とその仲間を紹介してくださったものです。
そのときばかりはとても嬉しそうでした。

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しばしの別れです。また会いましょう。
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そうして突然の訃報です。
人の死とは、肉体という衣を脱ぎ捨て、魂があの世に帰ることだから、
悲しみではなく喜びなんだ――という表現があります。
そうかもしれません。でも実際は、やはり悲しいものです。
そんなことを口にしてしんみりしていたら、正観さんの教えをきちんと
受け止めていた沖縄のある友人が、
「正観さんがよく言っていましたね。またすぐ会えるからって。
だから山平さん、元気を出して、笑って――」と力づけてくれるのです。
そうです。こうして住むところを違えるようになりましたが、正観さん、
しばしの別れです。またすぐに会えるでしょう。
これまでのご指導に感謝いたします。ありがとうございます。
さようなら。合掌。

追伸。
あなたと約束していた『淡々と生きる』という本はちゃんと出版します。

2011.10.22 風雲斎こと山平松生