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風雲斎のひとりごと No.60(2015.12.19)
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このメールマガジンは、これまで風雲舎とご縁のあった方々に発信して
おります。よろしければご一瞥下さい。ご不要の方は、お手数ですが
その旨ご一報下さい。送信リストから外します。

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さらば、わが友
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高校のクラスメート鈴木克彰が亡くなった。
その訃報を耳にしたのは、同じクラスの千葉紘一郎と久闊を叙して
いた今年春先の電話だった。話の合間に千葉が、「それにしてもなん
だな、克彰が死んだのには参ったな……」とつぶやいた。それを聴
いて、「え、克彰が……!」とおれは絶句した。あいつとは喧嘩ばか
りしていたように思う。どうしてこうもソリが合わなかったのだろう。
おれが右と言えば、あいつは左と言った。事あるごとに角付き合いを
していた記憶がある。

高校時代、おれは左翼意識が芽生えたばかりだった。自宅からマントを
羽織り朴歯をガラガラ響かせながら一高へ通う途中、中小路という有産
階級の住む町の一角に「松川昌蔵」という表札があった。門前にはリン
カーンという高級外車がいつもエンジンをふかして停まっていた。市長
の家だった。わが身辺の貧困を意識していたおれは、「田舎町の市長風情
になにがリンカーンだ……」と毒づきながら通り過ぎたものだ。
同じころ、一関小学校のそばにある三浦さん(といったかな?)という
一関の共産党支部のおやじと仲良くなり、「アカハタ」や宮川実の劣悪な
『経済学教科書』などを読まされ、今でいう代々木の洗礼を受けた。
ガキの印象とはいえ、なんとなく貧しいと感じた。

おれは、さっさとこの町を出て、帝国主義とは何か、国家独占資本主義
とは何か、この世のひずみがどこに原因があるのか、それを変革するに
はどうすればいいのか——そんなことを知りたかった。
親爺を早く亡くしたわが家は貧しかった。高校2年のある日、おふくろが
「そこに座って……」と前置きして、真剣な表情でこう言った。「母ちゃ
んはおまえを大学にやる余裕はない、高校を卒業したら勤めに出てくれ
ないか」「いやだ、おれはどうしても大学に行きたい。うちに金がないな
ら夜学に入って自分で授業料を稼ぐ」とその懇願を拒否した。真っ向から
おふくろに反抗したのは初めてだった。なんだかんだあったが、おれは
早稲田の夜学に入った。昼間の学部にもパスしたが、自分で働くと断言
したおれには夜学しか眼中になかった。

入って驚いたのは、おれみたいな左翼っぽい連中がうようよいたことだ。
かつての前衛日本共産党の路線に異を唱える、より左翼の連中との対立
が激しくなっていて主導権争いが公然と続いていた。おれの匂いを嗅ぎ
つけた代々木の連中が寄ってきて、「こっちに入れ」と口説かれたが、
違うと感じた。おれは極左と言われる側に立って学生運動に首を突っ込
み、共産党を除名された連中の後について共産主義者同盟(ブント)に
入った。唐牛健太郎、青木昌彦らがいて、彼らがまぶしかった。

60年安保でパクられたとき、おれの下宿にたまたま仙台から天野泰資が
上京して泊まっていた。指名手配ということで10人ぐらいのおまわり
と私服の一団に手錠を打たれた瞬間、それを天野に目撃された。
「偉そうなことを言っていたわりには、おまえの顔は真っ蒼だったぞ」と、
以来、彼には頭が上がらなくなった。そんな一コマを思い出す。
上に挙げたこの初志は未だにあまり変っていない。ただ、行動をもって
変革を図る立場から、意識を中心にして変革することでそれを求める側に
移動しただけだ。

そういう文脈でいうと、克彰は一関の旧弊さを代弁する奴だった。
一関主義というか、地の意識を濃厚に放出していて、その尺度からものを
見る癖があった。一関ローカリズムにうざいものを感じ、その矮小さから
抜け出したいと思っていたおれは、その匂いに辟易して距離をおいた。
あいつは街中の、学校中の、クラス中の事情に富み、くだらないことを何
でも知っていて、おれは情報屋(インフォーマー)と名付けてバカにして
いた。知的デカダンスに憧れる鈴木正興、芥川賞はおれが頂くなどとほざ
いていた柳沢悠紀雄、一つ上の千葉昭和などのややシニカルなロマン主義
者たちが、キラキラ光って見えた。

それでも、あいつが死んだと聞いて愕然とするのはなぜだろうと自問した。
いろんな場面があった。ラグビー部というぼろチームを必死に立て直して
いたあいつ、友達のこととなると我がこと以上に奔走していたあいつ、
おれがクラスの女の子に言い寄って振られたときに、あいつは真剣におれ
をたしなめた。正論だった。
あいつは正義漢だった。「保健」かなんかのテストでクラスの悪ガキが
面白半分に集団カンニングしたときも、あいつは加わらなかった。
娑婆に出て一人前の給料をもらっていたころ、千葉友光の妹がやっている
店で酒を飲み、帰路のタクシーの支払いにおれが社用のチケットを出すと、
「そういうのを公私混同というんだ」と怒ってあいつは自腹を切った。
そういえば大宮のわが家のすぐ近くにあったあいつの家を訪ねたとき、
おれは上半身裸だった。あいつは留守だったが、その姿を娘さんに
見られ、お前は無礼な奴だとずっと怒っていた。ゴメンな。

ふと気が付くと、結局、あいつはおれ、おれはあいつだった。同質な
ものをいっぱい抱えていたのだ。おれはこっちを通り、あいつはあっち
を経てきただけだ。千葉との電話の後で、盛岡の菅原正俊に克彰が亡く
なった事情をくわしく聞いた。ガキの頃から悪たれ仲間で明大までずっ
と竹馬の友だった菅原はこんなことを漏らしてくれた。「あれだけラグ
ビーの好きだったあいつが明大ラグビー部のテストを受けたが、まった
く話にならなかった」と。留守中にあいつの下宿を訪ねた別の友人が、
「机の上に『経営学入門』という本があった。あいつもちょっとは変
わったみたいだ」と報じてくれたことがある。そんなことを聴いておれは
涙が出そうになった。あいつも自分を変え、前に進もうとしていたのだ、
一生懸命生きてきたのだと。だからいつもあいつを意識していたのだろう。

いまおれは、かつて抜け出したいとあがいていたあのローカリズム、
原郷(パトリ)のような地平に限りない郷愁を感じている。あっちこっち
と訪ね、やりたいことをひととおりこなしてみると、結局帰るべきはそう
いうパトリだったと気が付く。遍歴と帰郷という二つの振り子は互いを
意識することで成立するのだ。むろんそこには、「ああ、おまへは何をして
きたのだと……吹き来る風が云ふ」(中原中也『帰郷』)という自責の念が
あり、「心置なく泣け」という慰めも聞こえてくる。そこは、たぶんおれが、
あいつがずっと求めていた時空だ。そこには、むろんあいつもいる。
千葉も高橋も氏家も菅原も天野も、懐かしいみんながいる。鈴木克彰、
いろいろありがとう。また会おう。合掌。

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脳梗塞のこと
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最近、脳の疾患で倒れる友人がやたらと多い。
脳卒中、脳梗塞、脳出血、クモ膜下——などなど。
つい先日も脳出血で倒れた後輩の知らせが届いた。
30年来の編集仲間がわが社で碁を打っている最中にぐらりと横倒しになっ
たのは、やはり脳梗塞だった。その瞬間、ぼくは「あ、これだ」と直感し
て、すぐに救急車を呼んだ。10分ほどで救急車が来た。大事には至らなか
ったが、あれ以後、友人は仕事を辞め、引退してリハビリに取り組んでい
る。そのとき感じたのは、彼にでもぼくにでも、どっちに来てもよかった、
ということだった。たまたま病魔は彼にいったに過ぎない。あれはおれで
もよかったのだ。久しぶりに彼に出会ったら、「ずーっと高原状に平均値が
つづき、だんだん悪くなる、おれはもう終わりだ」とつぶやいたのが印象
に残った。

この病をどうしたらいいのだろうと考えていたら、青木紀代美さんという
治療家が、「その道のすごい先生がいる。一度訪ねてごらんなさい」とおっ
しゃる。東京・亀有にある東和病院の金澤武道先生がその人だと。
頭が痛い、フラフラするなどのわが身のそれらしき気配の予備治療を兼ねて、
さっそく金澤先生を訪ねた。MRI撮影のあと、先生は仔細にフィルムを見て、
「こことここの神経が薄くなっている。予備治療をしたほうがいい」との
ご指摘で、10回ほど通院することにした(本当は10日ほどの入院で集中
的に治療するのがベストだというが、貧乏会社の社長が10日も休むわけに
はいかない)。

先生は、治療以前のMRIと治療後のそれを比べ、さらなる方針を提示し
て下さるという。これで未病でのままやり過ごした方の実例をたくさん聞
いた。それを楽しみにせっせと通院している。

先生は、事が起きる前の予備治療が大事だとおっしゃる。でもぼくの周りの
連中は事後の人が大勢だ。世間一般でもたぶんそうだろうと思う。事後の人
も含めどうしたらいいか、それをテーマに入れた本を書いてくださいとお願
いした。先生はうーんと首をひねっていらしたが、やってみようと結論付け
てくださった。來春には出版したい。

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『遺伝子スイッチ・オンの奇跡』のこと
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11月に出した上の本の売れ行きがいい。重版となった。
来春には東京で、著者と村上和雄先生お二人の講演会を行なう予定も決まった。
「よくぞこの本を出してくれた」
「これからの世にこういう視点がぜひ必要だ」
という感想がひっきりなしにわが社に舞い込み、嬉しい悲鳴を挙げている。
筑波大学の村上和雄先生によれば、
「”我を忘れる深い祈り“は、眠っている潜在的な力を呼び起こす」そうだが、
そのエキスを知った著者はどういう暮らしをして、どういうことを考えてい
るのか、その続編を書いてほしいと思っている。
たとえば、
『ありがとう10万回から100万回へ』など。
上の本は、ぜひご一読を頂きたい一冊です。

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財布が戻ってきた
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(以下は特別編です。わが女房氏のある新聞への投稿です。3か月たって
も掲載されないので、「ひとりごと」に載せてくれと。まあいいだろうと、
承諾しました。ご了承ください)

なんとなく手になじめず、いやだなと思いながら新しいバックを下げて
会社へ出かけました。午後4時過ぎ、東西線・神楽坂駅前のATMで用事
を済ませ、歩いて1・2分の会社へ戻ったら、バックがいやに軽いことに
気がつきました。あれ、財布がない! すぐATMに戻ったが、財布は消
えていました。確かにここに置き忘れたはず……。

すぐに近くの交番へ届けに行きました。無人だったが、近くの交番から若い
女性のおまわりさんがやってきて親切に応対してくれました。彼女は本署
と二、三やり取りした後、ニコッと笑って、「隣の交番に届けられています」
と。ありがたい! 隣の江戸川橋交番に届けられていた!

お尋ねすると、拾得者は名も告げず帰ったと。
男性か女性かも教えてもらえませんでした。現金(3万円余り)はともかく
会社、個人のキャッシュカード、クレジットカード等も全部入っていまし
た。一瞬、誰かを疑った自分が恥ずかしくなり、帰りの電車の中で、
「ありがとう」を繰り返していました。

どなたにお礼を申し上げたらよいか、一方で、こういう世間の善意に対し、
紙面をお借りし、お礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。(10月2日 さいたま市 山平陽子)

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来年、こんな本を出します
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●東大名誉教授大坪英臣さんの『65歳からの空手入門』(仮題)は、船舶
学という力学の大御所が、それを超えた不思議な力に取り組んだユニーク
な試みです。
●若い人に超人気の清水義久さんが『What a wonderful world!』を書き下
ろします。初めての作品です。
●『いま、目覚めゆくあなたへ』の著者マイケル・A・シンガーさんの新刊
『ぼくはこんな風にしてここに来た』(仮題)
THE SURRENDER EXPERIMENT:My Journey into Life’s Perfection(原題)
の翻訳(菅靖彦さん)ができあがりました。悟りに至るまでの自伝的エッセイ
です。
●超多忙の霊能者、並木良和さんの第2作目がやっと出ます。並木さんの
個人セッションを受けた読者は20人を超えますが、その助言に、目が覚めた、
生きる元気が出た、人生が変わった、と言う方がいっぱいでした。
●『脳梗塞なんて怖くない』(この道の大家、金澤武道先生)などなどです。

ぼくは本を読むのが大好き人間です。
おもしろくて、ためになる本を読むと、「ああ、いい本だな」と満足し、
次いで「ああ、ぼくもこういう本を創りたいな」と発奮させられます。
今年も静かにがんばります。よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。(今号終わり)